『自分の輝く場所は必ずある』
『自分の輝く場所は必ずある』
今日は、
オリンピックのスピードスケート代表選手から
30歳で競輪の世界へ転身。
周りと比べるとあまりにも遅すぎるスタートに、
多くの反対と批判がありましたが
今はトップ競輪選手として活躍する
武田豊樹氏の生き方から学びたいと思います。
その彼を支えた源とは何だったのか?
武田氏に語ってもらいましょう。
幼い頃から体を動かすのは大好きでした。
知床の雪国育ちなので、
スキーやスケートが盛んでした。
自然とスケートを始め、
小学校高学年の頃には
世界を目指すようになりました。
ただ知床には立派なリンクがなく、
あるのはスポーツ少年団の父母が集まって
水をまいて凍らせたリンク。
マイナス38度の中で練習した事もありました。
オリンピックでメダルをとっても
生活出来ないのはわかっていたので、
中学3年生ぐらいから競輪に興味を持ち始めました。
競輪に興味はあっても、
高校は、釧路にあるスケートの強豪校へ進学。
全国優勝したが、
このままで良いのか
意味の無いことなのでは、
とずっと考えながら頂点を目指していました。
そんな頃、両親に
競輪の道に進みたいと言うと反対されました。
卒業後は王子製紙の実業団へ。
でも、全く活躍できませんでした。
当時、競輪選手になるには年齢制限があり、
23歳までに試験に合格しないとなりませんでした。
どうしても諦めきれず、
23歳の時に最初で最後の試験にチャレンジ。
しかし、不合格。
この時既に実業団もやめていて、
競輪への道も閉ざされたのです。
3日後、橋本聖子さんから
「やること無いんだったら秘書でもやりなさい」と
電話があり、
北海道から永田町へ。
スポーツの世界からスーツを着る世界へ。
とにかく秘書業務は忙しく
昼ご飯もろくに食べられず、痩せていきました。
2年程のブランクを経て
秘書業務をやりながら橋本さんの会社で
スケート競技を再開しました。
スポーツを辞めた苦しさや
普通に働く厳しさもわかっていたので、
スイッチが入ったのでしょうね。
1年後には世界の舞台に戻り、
2年目からワールドカップでも優勝出来るように。
ソルトレイク・オリンピックに出場し
選手として一番油が乗っている時、
競輪選手の年齢制限が無くなりました。
次回のオリンピックを狙っていましたが、
頭の中でずっと引っかかっていた
競輪選手への夢に再度チャレンジ!
試験に合格し、
新人として最年長の30歳で
競輪選手デビューしました。
「スケートと競輪は違う」
「30歳からなんて通用するわけない」
と数多くの批判を受けましたが、
自分では、
そんな厳しさではへこたれない自信がありました。
何より
いつかは自分が輝く場所があるのだと信じていたので!
「まさか!」、
またスケートをやって世界にいけるとは。
「まさか!」、
競輪選手になれるとは。
人生は、
最後の最後まで諦めない事が
本当に重要なのだと教わりました。
武田氏の人生は、
私たちに、
「夢」を諦めない大切さを
教えてくれているのではないでしょうか